clover 〜 ウキョウ (思いっきり暗いです)
上澄みだけの美しさを未だに追いかけ続けている僕は
どうやら天罰が下ったようだ
光と闇の両方を知り
初めて その深さを その高さを理解するのかもしれない
少し 底の方に降りてみるよ
貴方の代わりになる人は誰一人としていないんだ。
なのに何故?
母さん、僕を愛していたら何で一緒に連れていってくれなかったの?
clover @ 〜 約束
僕の母さんは村一番の美貌の持ち主、否、近隣の村でも男達が噂を聞き付けて覗きに来る位。いわば荒地に咲く一輪の白百合の様な人だった。どんな木綿の接ぎが当った色褪せた着物を着ても泥に塗れてもその美しさは隠す事が出来ず。僕も母さんそっくりで生まれつきこの地方の男達と違って肌は光を通す様に白く、髪は滑らかな甘い菫色だったから幼い頃はさんざんからかわれたものだ ― ただ一つ母さんに似ていないのは額から頬にかけて出来た火傷の跡 ― それは僕が物心ついた時にはそれは既にあって、鏡を覗き込むたびにそれが僕を憂鬱にさせた。元来明るい母はからからと笑って、「男の子なのだからそんな顔の一部を気にしないの。」と言って取り合おうともしなかったから多分、幼い頃顔もろくに覚えていない父親に酔った勢いで火箸でも押付けられたんだろうと、随分と父を恨んだりしたものだ。僕と母、親子二人で貧しいながらも僅かな畑を耕し、どうにかこうにか飢えをしのいで生きてきた。雨風凌ぐ小さな家の他はほんとに何も無かったけれど母さんだけは僕の傍にいてくれる。ずっとそう信じていた幼い頃の僕―そう、野伏せりがこの小さな村に来るまでは―
村の米を奪い、そして帰る間際に最初はこっそりと、次第に堂々と昼夜問わず僕と母さんの家の中に入ってくる野伏せりの頭目、その度に幼い僕は家を追い出され、ある時は暗い夜道をとぼとぼと、ある時は土砂降りの中、お地蔵さんと雨宿りをしたりして。もともとよそ者である僕達に、ある者は好奇の目を、ある者はあたかも僕等が存在し無いかの様に見ないふりをしてその場を立ち去ろうとする。近所に住む、世話好きな小母さんただ一人が何故か僕達の事を気にかけてくれていた。
その日は夕日が薄雲をゆっくりと金色に染め上げて、まるでそれを干しに行くかの様にゆっくりと僕に背を向けはじめる。なだめるような日暮の声に僕がぼんやり柿の木を見上げてると、小母さんがやって来て話しかけてくれ、うっかりと口を滑らしたんだ。
「可哀相に・・・母さんが野伏せりなんかの慰みものになってしまって・・・。あんたの顔を焼いたのだって、きっと同じ想いをさせない為・・」
最後まで聞きもしないで僕は駆けだしていた。
(・・・顔に火傷を・・しかもわざと?なんで母さん?)
14歳の僕には母さん気持なんか理解できずに、外に出されているのも忘れ家へと駆け込んだ。
目の前に写った光景は既に抵抗する事も忘れ、目も虚ろな一糸纏わぬ母と獣の様な叫び声を上げる薄汚れた汚らわしい背中・・気付いた時には僕は、近くにあった剣で一突きにしていた。白眼を剥いた野伏せりはその場で息が絶えていた。汗と涙で濡れてしまった僕の額を掻き上げながら、火傷の跡を優しくなぞる。そして浅い呼吸を繰り返し震えている僕の手を優しく包み込み血塗れになったその剣を母は優しく抜き取り、自分の胸に突き刺す。
「・・・母さん?・・・どうして?なんで?」
必死に叫ぶ僕に、母さんは昔みたいな僕だけに向けてくれる特別な笑顔で囁いた。
「追っ手がやって来る。スエキチ逃げて!お願い・・・生きて・・」
僕は、次第に体温が下がっていく母さんに着物を掛け、必死で眠らせまいと母さんの顔を撫で、手を擦り、名前を呼び続ける。しかし、気付くと既に母さんはこの世にいなく、あるのは母さんが入っていた入れ物だけ・・
しばらくすると遠くから複数の足音が聞こえた。
(魂が無くても入れ物だけでも母さん、もうあんな酷い目に合わせたりしないから。)
囲炉裏にあった残り火を手にし僕は家に火を放ったんだ。
cloverA ウキョウ
絶望に取り囲まれたままの僕に
夢や希望なんて見出せない
それでも ただ一筋の光を投げかけてくれた少女
ぽちゃりと音がし、気がつくと僕は湖の中に一人立っていた。
(母さんの所に行こうとしたんだっけ・・・)
結局、中途半端な僕は心のどこかでまだ生きたいとそう願った?貴方のいないこの場所で?それとも最期の一瞬に今更、恐れを抱いた?もっと確実な方法を選べたはずなのに?自問自答を繰り返しては全てを呑み込んで深く息を吸い込む。 ― ふと湖面に映る自分の姿が眼に留まった。
(母さん?)
紛れも無く、僕の姿だが・・・一瞬だけ母さんに見えた、そんな気がした。僕が生きる事で母さんが生きるのなら、僕の中で母さんが生きられるのなら僕は生きよう。やっとのことで岸に辿り着き空を見上げると、雲一面だった空に僅かなひとかけらの青空が僕に微笑む。その青さに心の一番奥のカーテンが風に揺らされたような気分になって慌てて僕は目を閉じる ―涙が溢れないように― 急に手に温かなものが触れびっくりして下を見ると10歳位の黒髪の小柄な少女が僕の手を握り、微笑んでいた。思わずしゃがみこみ微笑み返す。少女は僕がずぶ濡れなのも構わず、その髪と同じ優しい、それでいて吸い込まれそうな瞳で僕の顔の傷に手を当てて告げたんだ。
「綺麗な水が流れています。貴方はきれいな事が出来る。」
そしてまたにっこりと笑うと駆け足で去っていった。僕は少女の後ろ姿を茫然と見送りながら、その時は心から思ったよ。母さんやあの少女が安心して笑顔で暮らせる様な、そんな世の中にした後じゃないと母さんと傍には行っちゃいけないって。 その時だった。ふと眩暈に襲われ、と同時に激しい耳鳴りが―そのまま僕は暗闇へと堕ちて行った―
気付くと僕は岸部に倒れていた。いつの間にか空は晴れ渡り、西に傾いた日の光が木の葉の合間をぬって、優しく僕を照らす。白い蝶が目の前を空に向かって舞っていた。
(確か蝶は死者の魂を導くんだったよね。)
ぼんやり考えながら僕は感じていた・・・僕には・・時間が無い。
(母さんごめん・・母さんと同じ顔に戻すよ・・いつも一緒だ。どうやら僕には手段を選んでいる時間が無いみたいだ。)
街へ出よう。そして―
cloverB ウキョウ
君が傍にいる そう思うだけで僕は強くなれる
目を瞑ると 君のその温かい温もりが伝わってくるんだ
でも君には笑顔でいて欲しい
君の笑顔は僕をもっと強くするから
君は笑顔が似合う人だから
あっしの名は権太。こう見えてもしがない人買いなんでございやすが先日、大物というか奇妙な人を引き当ててしまいましてね。いえね、いつもの通りこの最下層の街をぶらりぶらりと歩いてますと、肩で菫色の髪を風に靡かせている、そう年の頃は15,6って所でしょうか後ろから見ると少女のようにも見えるその華奢な体つきで活気溢れる人々が行きかう中を、どちらかというと粗末な身なりに似つかわしくない透き通る様な肌のせいか、そこだけ切り取られた様な周りに綺麗なお日様の光なんかが縁取っている、そんな雰囲気を漂わせて歩いてましてね、何となく声を掛けづらくてしばらく後をついて行きますと、気付いていたらしく歩調がゆっくりとしたものに変わりましてね、空気がピンと張付めてきました。(こいつは、いけない!)そうこうしているうちに、時間が経っていくので思いきって声をかけてみました。見ると左額部分から頬にかけて火傷があるじゃないですか。これは商品にならないと途中で話を切り上げようとしたんですが、その髪と同じ菫色のどこまでも澄んだ瞳でじっと私を見つめながら少年の話を聞くうちに― 一瞬、魂を魅入られたっていうんでしょうかね・・・いつの間にか手術代やら、仕事先までお世話する事になってしまった次第でやんす。 紅花―この花街でも一流の色子達が集まる茶屋でして、お客が最初に色子達を選ぶ際に、この茶屋では決まって舞を披露する決まりになってるんですがね、浮雲さん―源氏名がこの名前でしたのでそう呼ばせて頂きますが、まだ10日程しかたっていない頃、ちょうど用事がありまして稽古を目の当たりにしたんですが、男色なんてまるで分からない私もこの時ばかりはハッと息を呑み込んだものです。
―舞の稽古が終わってしばらくすると兄さんに呼び出される。明日、初めて舞台に立つと―
紅花の昼間は薄暗い洞穴の中を何処へも行き場の無い優しさと悲しみに一筋の埃混じりの光が差し込んだみたいなそんな処だった。身寄りが無い子や両親や親戚に身売りされてきた少年達・・まだ僕なんかより年端もいかない様な子がぞろぞろいて―ただみんな共通して言える事は本当に欲しいものが無いという事―僕を除いてはみんな不思議と何も望んでないようだったし、ここの他は何処にも行きたくないようだった。この一見、ふわふわと柔らかくまるで夕暮れ時の雲にそっと包まれたみたいに、誰も傷つける事の無い優しさの中で僕は何度、顔をうずめようとした事だろう。
その夜、舞台へと立った僕に客の粘りつくような視線が絡みつく、上から下へと遠慮が無い露骨な眼差しと酒気でだんだんと、僕の眩暈が酷くなっていく。客の一人に呼ばれて意識が朦朧となりながら気付いた時には客に横抱きにされながら渡り廊下を出ていた。男の酒気混じりの荒い息が頬にあたり、僕は吐き気を堪えながらも思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。広い中庭の遠くで微かに聞こえる鈴虫の声や獅子脅しの凛とした響きが今は厭わしく思えた。障子の開く音がしてそっと冷たい布地の上に降ろされた僕は震えながら逃げ出そうとその手を振り解こうとするが、力がまるで入らない。男に抱きすくめられ口を封じられる。
(・・助・・け・・て)
心が悲鳴を上げ、涙が込み上げる。
「い・・や・・だ」
その瞬間、客に殴打され目の前に鏡に自分の姿が・・・
(?!・・・母さん?)
思わず客を突き飛ばし、渡り廊下を突き抜け、裏路地まで駆け上がる。そして急にまた吐き気が僕を襲った。
「出来ないよ・・・無理だよ、こんな事。」
嘔吐が治まらない僕の背中を、気付くとやさしく擦る手があって―
蛍屋で拾われて2ヶ月。シチロージはやっと義手の使い方も覚え、そろそろ夜の街をぶらぶらと散策し始めてみたある日のこと、傘を差すにはほんの少し大げさな霧雨が降っていて、通い始めた飲み屋で一杯引っ掛けた後、ほろ酔い気分でふと路地裏を何気なく覗くと、ぼおっと雨と店から漏れてくるわずかばかりの光に包まれて菫色の髪の少年がしゃがみこんでブルブルと震えている。見るからに辛そうなので背中を擦ると何やら泣いている様子。自分の方に向かせ、額に手を当てると少し熱もある。丁度、この近くに以前世話になった薬師がいるのを思い出し、連れて行く。小部屋をあてがって貰い、乾いた着物に着替えさせ、薬師の調合した苦い薬を嫌がる少年に無理矢理飲ませた。大分、落ち着きを取り戻していった少年にぽつりぽつりと話を聞いていく。今度紅花に入った新しい子だという。名を聞くとぼんやりとした瞳を宙に漂わせながら
「・・・浮雲。」
そう呟いた。
「私の名はそうだな・・・キュウゾウ。」
と、相手に分かるようにでまかせを言う。こういう時は本名を告げない方が、相手が気楽な時もあるからだ。・・・だけれどシチロージの中で何かが引っ掛かる。記憶の糸が交差する様な・・。蛍屋で拾われる前の記憶がまだ断片的なものでしかないシチロージにとって、一欠片の記憶にすがってしまおうとしてしまう事があった―。宙を彷徨う瞳と眼がぶつかる―。はっと我に帰り、
「ところでお前さん、帰る所は?逃げたいのだったらこのまま、お逃げなさい。」
ぽんぽんと頭を撫でて言うと浮雲は
「僕はここで働かないと・・・お金が必要なんだ。そして商売の技術も。」
揺ぐ事の無い真っ直ぐな瞳を向ける。
「でも、お前さん・・こう言っちゃなんだが・・・私には無理な様に感じるが」
少年は顔を赤くして俯くばかり。
― シチロージは思う。この透明なビードロを通してずっと外の景色を眺めていたい。誰かに墨をべったり塗られるのではなく―
「もう一度言う。お逃げなさい。」
そう言って微笑んだ瞬間、浮雲のその柔らかな唇が押付けられる。
「!!」
引き離すと今にも泣きそうな、すがる様な瞳がシチロージを捉える。困ったように一瞬動きを止めるが、溜息をつくとそっと浮雲を抱きしめた―
悲しみを繋ぎ、失ったもの、そしてこれから失うものを言葉では表せないものを揺れる毎に伝え合っていく―
途中、小さなうめき声を上げる浮雲に
「痛いのかい。」
とシチロージは何度もキスをし、浮雲は首を横に振り続けてはその頬に涙が伝う。そして、シチロージの目元の滴を払った―
―あの晩以来、僕はあの人の処にはいっていない。もう一度、逢ってしまえば、きっとあの人の優しさに溺れてしまいそうな、そんな気がするから。凍りつきそうになった時はあの人が置いていってくれた温もりを抱きしめながら。
母さんに早く逢える様に、ぼくは前へと―
cloverC ウキョウ
僕は貴方がいればそれでいい
それしか望んでいなかった
きっと僕を解ってくれるのは
あなたしかいないと
今日はあの人との約束の日、そう思うと店に出る憂鬱も少しは晴れる。もう随分と経つのに未だに客と一夜を過ごす事には慣れない。客が寝入った頃を見計らっては吐きに行く。そしてまだ明けきれぬ夜を眺めあるいは、白々と昇る朝日を眺めながら感情というものをすっかり何処かへ置いてきてしまった海綿の様な心の隙間にとにかく何かを詰めてしまおうと必死になっていた。 ― そう、あの人と逢った時はどうしようもなくあの三本髷のキュウゾウさんに逢いたくなっていた時だった。丁度、店の兄さんから用事を頼まれ、外に出て見ると黒い人垣が出来ている。その中心には『命売ります』という妙な旗を持った背の高い浅黒い男が一人立っていた。次々と自分の額めがけて打ち込んでくる矢を一瞬、恍惚とした表情を浮かべ受け止めている。その瞬間だけ生を歓喜するかの様に・・散在していた魂の欠片がこの瞬間だけこの男の元に呼び戻される様に。額から流れ出す一筋の汗でさえもキラキラと輝きを放ち、心を無くした僕には眩しく映った。夕の刻、用事を済ませて帰り道、近道をしようと土手に昇りふと下を見ると、昼間見た男が一人、川を見つめて座っている。心なしか小刻みに肩を震わせながら―
拙者の名前は片山ゴロベエ大戦後、旅芸人として街から街へと渡り歩いてきた。戦争の後遺症か、一人になるのがどうも苦手でな、いつも人ごみの中の中でしか生きられない。絶えず緊張していないと眠る事すら儘ならない、ほとほと困っておったある日の夕方、いつもの様に発作がやってきて人に見られない様に急ぎ橋げたに隠れてうずくまっていた所を、菫色の髪をした一人の綺麗な若者が平然と隣に腰を下ろす。川面を見つめながらもその左手は優しく俺の腕を擦った。
「・・・・。」
しばらくすると発作は引き始め、黄金色に染まり始め、ゆっくりと波打つ川面を二人で黙って眺めていた。それからぽつりぽつりと話していく。発作の時に出会ったせいか不思議と初対面のこの若者には眠れぬ事を打ち明けていた。しばらく黙って聞いていた若者は唐突に
「先程の芸、観てました・・・取引してませんか?」
と涼しげな眼元を向けにっこりと微笑んだ。
「銭など持ってはおらぬ。」
「貴方は私に商売のコツを教える。」
「して?拙者ははその見返りに?男色の気など無いぞ。」
ふっと眼が揺れ、若者が何故か寂しそうな表情をその横顔に浮かべる。
「貴方が眠る事が出来るように添い寝を。」
猫じゃらしが風に揺れ淡い光の幕を創る。それは小さくささやかではあるけれど、まるで外界から俺達を守るように―
5日を待たずして浮雲は夜を忍んでは俺の所に来るようになった。床に入りながら商売の話をする。そのうち必ず俺の方が先に寝いってしまう。起きる時も先に浮雲の方が起きていると言う訳で、寝顔を見る事が無かった。そしてどういう訳か浮雲と一緒に床に着く晩は夢見る事も無く眠りにつく事が出来た。浮雲の持っている何かが俺を安心させる。―ピンと張りつめた儘だった心が一瞬だけ解放される様だった。― このまま ― このままの状態が続いたのなら ― どんなにか俺は ―
その年の夏は梅雨明けが遅く、その晩も雨がしとしとと降っている中、いつもの通り浮雲だけは涼やかな様子でやってくた。しかし何故か眼線を合わせようとはせずに眼を伏せたまま、隠す様に俺に抱きつき深く息を吸い込む。
「・・・どうした?・・ん?」
「・・・ゴロさんの匂いだ。」
僕はゴロさんの衿でそっと涙を拭きながらもう一度深く息を吸い込んだ。
(この匂いを忘れないでいたい。)
「ゴロさん、身請けが決まったよ・・・だからもう・・ここには来れない。」
自分の声ではない様な気がした。自分が望んだ事、母さんとの約束を果たす為にまたとないチャンスだった。なのに僕はなんでこんなにも震えているんだろう・・何故かゴロさんにしがみ付いていないと溺れそうな気がした・・・
突然、ゴロさんが物凄い力で僕の体を締め上げてくるのを感じる。
「・・・ゴロさん・・・痛い・・」
聞こえていないのか、力は強まるばかり、僕は必死にもがいた。緩んだ隙に腕を振り払おうとするが、反対に手首を捕まれ足を引っ掛けられる。そのまま横倒しになった僕の唇は塞がれて、息も出来ないような深い口付けで段々と意識が遠くなっていく。
「・・・契約・・違反・・だ・・よ・・」
呂律が回らなくなった口で抗議する僕に、遠くでゴロさんがこう呟くような気がした。
「失いたくなかった。」
浮雲を覚えていたかった。― 全身で、その光に透けるとまるで夕焼け雲を切り取ったみたいな小さな耳朶や笑った時に口に手を当てるしぐさ、ふとした時に見せる淋しげな色、そして時折魅せるぞっとするような冷たさ、その全てを余す所無く、細胞一つ一つに刻み込んでおきたかった。浮雲の衣を剥ぎながらその全てをなぞり、上から唇を押し当てていく― 一分の隙間無く― 始めは弱々しく抵抗した浮雲も抗議の声さえ次第に聞こえなくなった。ふと顔を見ると、声を出さずして涙を流している。ゴロベエは唇でそれを受け止めていく―
「ゴロさん、ゴロさん・・・」
頭を掻き抱きながら、今度は自分からゴロベエにその身を沈めていった。
(多分、最初に逢った時からずっとこうしていたかった・・貴方と・・)
眉根を寄せる浮雲にゴロベエはそのままの状態で、ずっと髪を撫でていた。安心した様子で初めて寝顔を見せる浮雲に、ゴロベエは囁く。
「二人でこのまま何処かに行こうか。」
cloverD ウキョウ
アヤマロの養子となった僕はある日、父上の用心棒を紹介される。テッサイと同じ部隊だったヒョーゴと・・そしてキュウゾウという名の元サムライ。僕の知っているキュウゾウさんとは似ても似つかない程、無口で無愛想だったが、ふと遠くを見つめる眼差しや、俯く時に周りを取り囲む空気みたいなものがびっくりする程似ていて、時折、僕はハッとさせられていた。丁度、その頃は父上はよく蛍屋に出入りしていた頃で、花街の供をするのはいつもヒョーゴの役目、しかし蛍屋だけはキュウゾウも何故か一緒に付いて行く。― 何か面白くない ― ヒョーゴにそれとなく聞いてみるとやはり面白くなさそうに、シチロージという三本髷の男がお気に入りらしいと呟いた。(シチロージって・・・キュウゾウさんだ・・シチロージさんっていうんだ・・。キュウゾウの事を?)シチロージさんではなくキュウゾウさんとして逢いたかった。僕がウキョウとしてではなく、まだ穢れを知らなかった頃の浮雲のままで逢いたいのと同じ位に。なのにキュウゾウはあの人と逢っている、途端に無意識に押さえていたあの人への想いや気軽に逢う事の出来るキュウゾウへの嫉妬で僕は混乱する。気付くとキュウゾウの部屋へと続く廊下に一人立っていた。目を瞑り、足音が聞こえるのを、木が軋む音を息を潜めて伺う。
「シチさんとは何回も寝たよ。何回もね。」
眼を開けずに、そして挑発するようにわざと何回もを、渇いた口の中で繰り返した。
「言っとくが、僕から誘ったわけじゃない。」
「・・・・。」
背中から一瞬、物凄い殺気が感じられる。そしてキュウゾウが振り向く。
(刺すんだったら、早く刺せよ。)
キュウゾウは先程の殺気をいとも簡単にしまいこみ、じっと僕の顔を見つめた。
「・・・かたじけない。」
それだけ言うともう振り向く事無く、去っていった。
(なんなんだよ、あいつは・・・僕が憎いんじゃないのか?あの人に裏切られた、そう思わないのか?)
余計に混乱した頭で僕はワーリャ達の寝室を抜け、殆ど誰も知る事の無い、父上ですら出入りを禁じている秘密の部屋へと閉じ篭った―
(・・・・!シチがウキョウと?)
未だ記憶が戻っていないシチロージ・・・キュウゾウは弓月に向かって呟く
「なくした物を埋め様と・・その一部がウキョウだったのか?」
景色が変わったからといって、もうお前と俺は以前と同じ想いを抱けないのか?
不安が募り、自然と足は蛍屋へ向いている。
いつもの様に竹刀を振るうシチロージはキュウゾウを見ると嬉しそうににっこりと微笑む。
「一本付き合って貰えませんか?」
一太刀、また一太刀交わす毎にシチロージの体に振動が走る。体全体が騒ぎ立てる。思い出せとざわめき立つ。
(・・何を?・・一体?)
額に流れる汗を拭い、キュウゾウを見つめる。
「キュウゾウ・・さん・・。」
溶けた氷が静かにたてる筈の音を、そっと忍ばせた様に現れた筈の景色もまた消えてしまう・・シチロージは知らず知らずのうちにキュウゾウの肩に額をうずめていた。
(でも何故か貴方の事ばかりが頭の中に浮かんでくる。そしてこうしていない時でもいつも貴方を感じる事が出来る)
蛍が飛び交う中、それを見上げるシチロージの横顔にキュウゾウは思わず笑顔が浮かんだ。
(毎日、見ているだろうに・・思い出せないのなら、思い出さずとも良い。俺は何度でもお前を想う。例え違う景色を見なければならない時が来ようとも、必ず隣に舞い戻る―)
どのぐらい蹲っていたのだろう、畳1.5帖位のコンクリート剥きだしのその部屋は小さな窓が一つ付いているだけで、家具は一つも無かった。― あの二人はお互い信じ合っているのだろうか?馬鹿馬鹿しい!そんな生半可な愛なんか、信用なんか僕が叩き壊してあげるよ・・キュウゾウを見た時、そう感じた。人間は裏切る生き物で所詮、僕の女の子達や父上みたいに、すぐお金や時間で立場でころころと変わっていくんだよ。心なんてすぐにね・・・なのに、キュウゾウは、ビクともしなかった・・なんで・・どうして・・・
― でも心のどこかで願っていたんだ。絶望を抱え過ぎていた僕はあの人とアンタが絶対的なものがこの世にあるって事を、僕に証明してくれるって事をね ―
その時、ドアをノックする音が聞こえる。誰もノックするはずの無いドアを―トントン―あまりのしつこさに、不機嫌な声で返事をする。
「―誰?」
「若、お茶を持って参りました。」
何でテッサイ・・・こんな所にここまで来るのにセキュリティーシステムを幾つ破壊したのか・・ドアを開け、お茶を受け取る僕の顔を見るテッサイの顔は心なしか嬉しそうだ。黙ってお茶をすする僕に、テッサイは
「どんな時でも、私は若の味方ですから・・・。」
そう言って満足げな微笑みを浮かべるテッサイの顔が何故がぼやけて見えた。喉に熱いものが込みあげてきてそれを誤魔化すかのように横を向いてボソッと呟く。
「テッサイ、このお茶、不味いよ。」
cloverE ウキョウ
数日経ったある夜、廊下でキュウゾウが一人柱に凭れ掛かっている。眼を瞑り腕を組む様はまるで彫刻の様、そしていつも一分の隙も無くピンと張りつめたこの空気に触れるとある種の感動すら覚えたものだ。―ふと手摺に凭れ掛かってぼんやり外を眺めている所へ気が付くと、背中へと襦袢を通して鋭利な刃物をあてがわれたそんな感じの雰囲気が漂ってくる。でもあの日以来、出来ればキュウゾウの顔は見たくは無かった。黙ってやり過ごそうとするとキュウゾウが口を開く
「シチが心配していた・・・」
抑揚のない声でさらに先を続け様とするが、僕はそれを遮り
「聞きたくない・・・」
それだけ言うのがやっとで、足早に部屋へと戻って行く・・逃げるかのように・・
(心配?もう嘘はよしてくれ・・同情も・・二人の邪魔はしないから・・もう僕を放って置いてくれ)
差配の養子となった僕は父上亡き後の政事のあり方をひたすら考え続けた。そうする事で母さんやあの少女の事だけを考える事が出来た。現実の誰かを信じる事がもう怖かったかもしれない。
― でもテッサイだけは違っていた。周りがちやほやする中でテッサイだけは常に僕自身を見つめ続けていた。そして、相変わらず、ずけずけと父上でも言わないような事を僕に言ってくる。そして僕が沈み込んでいる時もテッサイだけは片時も離れる事は無かった。それでも怖い僕は片足を一歩だけ踏み入れたままの状態で、やっぱり距離を置いてしまう。その胸に飛び込んでいったのならばきっと抱きとめてくれるだろう―誰よりも優しく、そして強く―それでも敢えてそうしなかったのはテッサイを失ったら僕は生きていけないだろうと感じていたから、そしてもう一つはこの深い僕の暗闇に彼を引き摺り込むわけにはいかなかったから。せめてテッサイだけには光の中を歩いて欲しい。それを僕は眺めるだけで、この荒野を一歩また一歩と進める様なそんな気がしたんだ。
若は最近、何か変だ。傍から見ると側室達や取巻き達との享楽ぶりが輪をかけたようで、ともするとなにやらいろいろと御自分の出生やミヤコについてもいろいろと調べているらしい。はしゃいでいるかと思うと急に塞ぎこんだりする事も多く・・見ていて何か痛々しい、そして段々と痩せ細っていっている。元気そうに振舞っているものの少しずつ体から生気が抜け出すように―たまに若が透き通って見える事があるような気がする―目の錯覚だと思うが。ごく稀に無邪気な笑顔を見せる時がある―まるで天使の様な。そんな時は何処かへ消えてしまうのではないか―根拠も無い漠然とした不安が頭をよぎる。心配で一番気にかかるのは何度も言い聞かせているにもかかわらず、薬師から調合した薬を飲まなくなった事だ。とにかく若から目を離せないでいる。
そして先日、街に出た際に農民の娘が欲しいと騒ぎ出した。少し変わった雰囲気のある娘で名前は・・たしかキララ。若の異様な執着ぶりに少しは生きる気力にも繋がればと、そして薬を飲むようにもなるかもしれないと何故か複雑な気持ではあったけれども若の望みを叶える事にした。
キララ君を見た時、あの時の少女だとすぐに分ったんだ。そうあの時と変わらない、僕を真っ直ぐに見据える湖面の様な静けさと透き通るような瞳・・どうか僕の隣にいてこれから僕がやろうとする事を見守っていて欲しい。君は他の子とは違って変わる事無く、居続ける事が出来ると思うから。僕を好きになってくれとは思っていないよ。ただ傍にいて欲しい―母さんの代わりに―気絶したキララ君の頬を手の甲で撫でる僕の心ををテッサイは見透かすようにじっと見つめた。僕は宝物を慈しむような表情に徐々にすり替えながら
「キララ君は原石だよね。磨けばもっと光るよね。」
もっともらしくテッサイに話しかける。テッサイは
「私の宝は若一人ですから。」
ぼそっと呟き、ニヤリと笑う。
(・・・テッサイ・・何言ってるんだ。)
咄嗟に返す事も出来ないままに聞こえないふりをする。赤い顔を隠すように俯いてキララ君の頬を撫で続けた。窓からそよ風が入り、優しく僕の頬を撫でていった。秋風って何故か透明に感じられるのは人恋しくなるからだろうか。僕は、この男を信じて見ようか、裏切られてもテッサイならばいいか、初めてふとその時思ったんだ。
cloverF ウキョウ(最終章)
アマヌシが僕の本当の父親だと告げられた時、そしてアマヌシがサナエとかいう女御を愛しげにサナエもまたアマヌシしか目に入らない様子に ― 二人の間には僕という異物が宙に舞う塵の様な存在でしかない空間がそこにはあった。アマヌシ、あなたはそんな目で一度でも母さんを見つめた事があったの?そして僕を一瞬だけでも想い出してくれた事はあった?鋭い痛みが胸を貫いたまま、鈍い炎を体内に残す。・・・母さんは貴方のせいで。息苦しさを堪え、儀式を終える。アマヌシの生命装置に手を掛ける時、母さんのその白過ぎる弱々しい肩が脳裏をかすめ、瞼に焼きついた湖の湖面に水の滴が落ちては消えていく・・・僕は目を閉じそしてスイッチを切った。― 貴方の創った世界で、貴方の行った事で僕達がどれだけ苦しんできたか ―
人々は怯え、希望の見えない日々が続いていく。その日その日を精一杯ただ生きるだけの毎日の繰り返し。キララ君達がいつも笑顔になれる様な、母さんの横顔が日に照らされる様な、そんな世界を僕がこの手で―
虹雅峡で人質解放の声明を出した直後、部屋にいったん戻ろうとする若が大きくぐらりと揺れる。慌てて支えるが、既に意識は無い状態・・・一番近い部屋というと私の部屋位だろう。ヒョーゴはウキョウをひょいと横抱きに抱えるが、そのあまりの軽さに唖然としてしまう。
(若・・・いったい?)
自室に連れていき、床を急いで用意しそっと寝かせる。肩が上下に揺れていて顔には血の気が無い状態だ。
(早く典医と、テッサイを呼ばなければ!)
膝を立てた瞬間に手首を捕まれる。力はまるで篭っていないが、ウキョウの心がその指先から熱と共に伝わる。そして蚊の泣くような小さな声で、
「・・・テッサイには言わないで。」
「・・・若、でも。」
「ヒョーゴ、お願いだから・・僕はもうそんなに長くは無いんだ。・・・それとキュウゾウの事はもう諦めなよ。」
「・・・。」
「・・例え、ヒョーゴがキュウゾウを斬ったところで、君が惨めになるだけだと思う・・ある種の虚無感が口を広げて待っているんだ。― あの二人は本物だったよ・・・それでもけじめってやつを付けにいくのかい?」
掠れた声で天井を、否―その先を多分見つめているんだろう若の目尻は何故だか涙が流れていた。
「・・・その代わり、ここにいる間は僕の言う通りにしてくれないか?」
父上は色子であった僕にいろんな事を教えてくれた。勿論、愛情など一滴も注いではくれなかったが、それでも随分と親切にはしてくれた。これ以上危険な目に合わせたく無いと思っていた僕は、この機とばかり逃がす算段をする ― そしてテッサイも ― ヒョーゴに頼んでテッサイに父上を無事安全な所まで送る手配をして貰った。無論、僕が追っている様に見せかけて。
(テッサイ、お別れだ・・・もうこれ以上、何よりも大切な貴方を巻き込む事なんて出来ないんだ。)
目を瞑り、虹雅峡に降り立ったであろうテッサイに話しかける。
(生まれ変わったら・・・今度こそあなたの傍に・・離れる事無く)
涙を拭い、カンナ村へと向かう為、自分の士気を鼓舞していく。と、突然ドアが開いた。
(・・・テッサイ?!)
・・・何で!!持てるだけの精一杯の冷静さを保ちながら、足を組む。
「ヒョーゴがいる。もう君には用が無いんだ。」
プイッと横を向く。テッサイは全く意に介さない様子で
「ヒョーゴでは・・若には私がいないと。」
それだけ言うとゆっくりとパイプを燻らした。昇り立つ煙を見つめテッサイはボソッと付け加える―いつもより声が上擦って聞こえたのは、きっと僕の気のせいなんだろう。
「・・・私にも若がいないと・・」
気が付くと僕はテッサイの背中にしがみ付いていた。貴方じゃないと駄目なんだ。心ではいつも解かっていた事。― ただこの温もりだけをいつも欲していたんだ。生まれる前からずっと ―
― 例えこの生が尽きても母さんが待っているその向こうで ―
光り溢れるその光景が目の前に広がり、クローバーの咲く丘へと続く。君へと繋がる路をただ温もりを手がかりに探す僕は、いつも君の笑顔を胸に抱き締める。心なしか歩調が早くなっていく。
― 愛する君といつまでも ―
clover おわり