蛍屋にて
蛍屋での仕事が一段落し、早々に部屋に戻るユキノはその日、呉服屋から届きたシチロージの藤色の上着を畳んでいた。
先日久々に一緒に街へ買い物に行った際に数ある中で、これが好いと既製品の女物の着物を、さも嬉しそうに手に取って見ていた横顔・・
綻びとそして僅かだがシミのあるその着物に、違うのにしたらどうかい?と勧めはしたが、これじゃないと
と聞かなかったっけ・・。何とか綻びとシミ抜きを呉服屋にお願いしその日は店を後にした。
(何で女物の着物が欲しがるのかね、お前さんは?)
ふとユキノは時折見せるシチロージの宙を彷徨う様なその虚ろ気な目つきを思い出す。
サムライ稼業を辞めたその空虚感とも違う、まるで迷子の様な・・
(可哀想に・・お前さん、本当は待っているお人がいるんじゃないのかい。・・帰る路を忘れてしまったんだね。)
ともあれ、ここはシチロージにとってここは仮の宿に過ぎず、私はこの蛍の様にやがて彼の記憶から遠のいていくだろう。
それでいいのだと自分に言い聞かせ、視界がぼんやりとするのを慌てて上を向いたまま目を瞬かせる。
親もいない私は親戚中にたらい回しにされた揚句、身売りされてこの癒しの里という色街に流れ着いた。
以来ここから一歩も外に出たことはない。花魁だった時に大店の旦那様から請われて今はこの蛍屋を任された身。
そんな自分を幸だ不幸だとは思う隙もなく、温かい仲間に支えられ、慕ってくれる蛍屋の皆や喜んでくれるお客様、
そして何よりもこんな私を拾ってくれた今は亡き旦那の温情に報いらなければと必死で今まで生き続けていた。
遊女上がりの私には、恋など無縁のこと・・対岸の出来事。 まして相手はサムライ・・
獅子落としの音に混り聞き慣れたその足音が縁側から近づいて来た。
外を見ると少しほろ酔い気分で片手に特利をもったシチロージが柱に凭れ、上限の月をぼんやりと眺めながら独り言の様に呟いた。
「ユキノ、今宵も月が美しいでげえすな。」
「お前さん、今日もお疲れ様でした。さっき、トクさんがお膳を運んでくれたから。」
「こんなにお月さんが奇麗な晩・・せめてお膳を庭の方に向けて食べようじゃねぇか。」
鱧の煮つけを美味しいといって嬉しそうに目を細めるシチロージの姿に、ユキノは嬉しくなってそっと自分の分もその膳に乗せる。
「どうした?食べないのか?そういえば、ちょいと顔が赤いな。」
心配そうに顔を覗き込み、額に右手を押し当てた。
「熱は無い様だが、この所、蛍屋も忙しくてろくに休んじゃいなかったから、疲れが出ているかもしれないな。」
「ありがとう、でも大丈夫。・・アンタが美味しそうに食べている顔を少しでも長く見ていたかっただけだから。」
「ユキノ?」
「お月様はそりゃあ綺麗だけれど、蛍の儚い光も・・10年に1度くらいでいいから思い出してやってね・・」
今日の私はちょっとおかしい・・耐え切れずそのまま部屋を出ようとするユキノの手首を、シチロージがやんわりと優しく掴む。
振り切ろうとすればいとも簡単に振り切れるその手を、いつも振り切れない自分が哀れでならなかった。
「お前さんは自由なんだ。左手の借りがあるなんて思わなくていいんだよ。」
振り向かず嗚咽を飲み込んだままの掠れ声で呟くユキノに、シチロージの手の力が加わる。
そのままそっと自分の腕の中に包み込み涙で光るユキノの頬に唇を寄せ、その線をなぞっていく。
「ここに居るのは借りだけじゃねぇ・・。」
「嘘ばっかり・・憎らしい人・・」
吐く言葉を閉ざす様にそのままシチロージはユキノにそっと口づける。徐々に舌を絡ませていくとユキノの強張っていたその肩や腰がやわやわと崩れ落ち、
その紅とユキノの匂いが混じって鼻孔を甘く、くすぐった。ゆっくりと離すと乳白の肌を首筋まで仄かに紅色に染めたユキノが潤んだ瞳でシチロージを見上げている。
シチロージは痺れる様にもう一度、抱きしめたままにその黒髪に顔を埋めて呟く。
「鱧の煮付よりも何よりも、今はお前とこうしていたい。」
お前さん、たとえ一時でも私は貴方に逢えて幸せでした。
貴方以外の思い出はもう何も要らない、そう思えたから ―
完